東京高等裁判所 昭和54年(う)305号 判決 1979年9月27日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中二五〇日を原判決の刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人鈴木淳二が差し出した控訴趣意書及び同補充書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書にそれぞれ記載してあるとおりであるから、これらを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。
一、控訴趣意第二(訴訟手続の法令違反の主張)について
所論は、要するに、原判決は、原判示第二事実(殺人)認定の資料として、被告人の検察官に対する供述調書三通(昭和五一年一一月一五日付、同月二四日付、同月二六日付)を掲げているが、これらの検察官調書は証拠能力のないものであり、これを証拠として判示事実を認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があると主張し、その理由として、原判示第三の覚せい剤取締法違反の公訴提起後における右殺人事件の取調べは起訴後の取調べに当たり違法であるところ、右各検察官調書は、いずれも右違法な取調べのもとで作成されたものであるから証拠能力を欠くものであり、また、利益誘導、自白強要によりないしは弁護人との接見交通権を侵害する違法不当な取調べのもとで作成された任意性のないものである、というのである。
しかし、一般に捜査官による起訴後の取調べとしてその適法性が問題とされる取調べは、起訴された当該公訴事実の取調べであって、それと別の事実の取調べは当該起訴によって制限されることはないものであるところ、所論の各検察官調書はいずれも原判示第二の殺人の事実のみに関するものであるから、その事実とは異別の原判示第三の覚せい剤取締法違反事実の起訴の後の取調べのもとで作成されたものであるからといって、直ちに証拠能力を否定されるいわれはなく、また、右各検察官調書の形式、記載内容を仔細に検討し、かつ、被告人の原審公判供述その他関係証拠と対比して考察すると、右各検察官調書が所論のような任意性に疑いを生じさせるような事情のもとで作成されたものではないことが明らかであり、なお記録及び証拠物を精査しまた当審における事実取調べの結果を勘案してみても、その任意性に疑いをさしはさむべき証跡を発見することはできない。原判決がこれらの検察官調書の証拠能力を肯定して事実認定の資料としたのは相当であって、原判決には所論のような訴訟手続の法令違反はなく、論旨は理由がない。
二、控訴趣意第三(事実誤認及び法令適用の誤りの主張)について
所論は、要するに、原判決は、原判示第一及び第二の妻花子に対する傷害及び殺人の各犯行当時被告人は心神耗弱の状態にあった旨認定しているが、鑑定人影山任佐及び同保崎秀夫の各鑑定(以下、影山鑑定又は保崎鑑定という)は、犯行時に近接してなされていること、精神科医師としての知識と経験に基づき被告人との面接その他一件記録の検討により具体的な各症状を挙げて精神状態の異常を認定していること、被告人は各問診時に真実を記憶のまま述べていることなどからみて、医学的に極めて信用性の高いものであるのと対比して、原判示認定の根拠とされた鑑定人岩佐金次郎による鑑定(以下、岩佐鑑定という)は、精神医学的所見に基づいて判断するのではなく、供述内容の検討に重点を置き、予断と偏見を抱いて行われたものであって、信用性に欠けるものであるところ、影山鑑定及び保崎鑑定によれば、被告人は犯行当時覚せい剤慢性中毒による嫉妬妄想、被害妄想を主体とする異常な精神状態にあり、犯行の動機はいずれも右妄想に支配された病的なものであったと認められ、したがって、被告人は犯行当時心神喪失であったと認定評価すべきものであるのに、これを心神耗弱とした原判決は事実を誤認し法令の適用を誤ったものである、というのである。
しかし、原判決挙示の証拠(証拠の標目に挙示されているもののほか、被告人の精神状態に関する説示中に掲げられているものを含む)を総合考察すると、原判決が、その「判示傷害及び殺人の各犯行時における被告人の精神状態について」の項において、証拠を引用し、被告人の覚せい剤使用の経過及び状況、覚せい剤による被害妄想を主体とする異常体験の内容及びその推移、原判示傷害及び殺人の各犯行当時の被告人の精神状態等について示した詳細な判示、並びにその結論、すなわち要約すると、「妄想ないしは異常体験が被告人の日常生活に常時影響を与えていたものとは認められず、右各犯行の直接の動機は、花子の対応に触発された被告人の異常性格に基づく爆発反応であって、妄想を主体とする異常体験ではなく、被告人は右各犯行当時是非善悪を弁識する能力及びこれに従って行動する能力を未だ欠くには至っていなかったが、右各能力を著しく減弱した状態にあって心神耗弱と認めるのが相当である」旨の判示は、いずれも優に首肯できる。
所論は、岩佐鑑定には信用性がないというが、記録を精査するもその信用性に疑いをさしはさむべき証跡は認められないし、特に原判決が詳細に判示している各犯行の状況並びに犯行前後の被告人の理に適った言動等に徴すると、犯行の直接動機は爆発反応であるとして心神耗弱を示唆する岩佐鑑定は、心神喪失を示唆する影山鑑定及び保崎鑑定に比しより事実に符合し説得力があるということができる。なお、関係証拠によると、影山鑑定については、被告人は同鑑定の問診に際し、狂った振りをし異常体験を殊更強調して事実と異なることを答え、同鑑定はその答えを資料としてなされたことが窺われるし、また保崎鑑定については、覚せい剤中毒による精神障害は、病的体験が全人格を支配するとされる精神分裂病と異なり、その病的体験が全人格を支配することはないので、右両者を比較しながら論議するのは適当ではないとされているところ、同鑑定人もその点を認めておりながら、被告人については妄想を主体とする異常体験が遷延化しているとして、無意識のうちに分裂病との対比をしながら判断をしていると窺われるところがあり、それらのことがそれぞれの鑑定の信用性に微妙な影を投じていることも否定し難いのである。
所論はまた、(1)原判決は、判示傷害について、「被害者花子も、『被告人に向って行った際、包丁を手にしていなかった』と供述するほかは、当時の状況につき被告人の右供述に符合する供述(甲野花子の検察官及び司法警察員に対する各供述調書)をし」ている旨認定しているが、判示傷害に至る経緯態様については、被告人と被害者との間で顕著な矛盾が存在する、(2)同じく原判決は、「当時妄想の出現を見なかったことは、被告人が捜査、公判を通じて認めている」旨認定しているが、右認定は被告人の原審公判供述等客観的証拠と明白に矛盾する、(3)原判決は、判示殺人に関し、「被告人の本件犯行当時の記憶はかなり詳細、正確であって意識の清明であったことが認められる」旨認定しているが、右認定は誤りである、と主張するが、右(1)及び(3)については、原判文中に引用の各供述調書に徴すると、所論指摘の判示認定はいずれも相当であって誤りはない。同②については、所論指摘の判示認定中「犯行当時に妄想の出現を見なかった」とあるのは、「犯行の際に妄想の出現を見なかった」という趣旨であって、被告人が犯行以前から妄想を主体とする異常体験をするようになっていたことを否定するものでないことは、原判決の判文から明らかであり、原判決挙示の被告人の原審公判供述並びに捜査官に対する供述調書によれば、右趣旨の原判示認定は優に肯認することができる。所論はいずれも失当である。
なお、所論中に、原判決挙示の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性を争う趣旨の主張があるが、原判示事実に添う限り右各供述調書は十分信用できるものと認められ、これに反する被告人の原審及び当審各公判供述は措信し難い。記録及び原審取調べのその余の証拠並びに当審における事実取調べの結果によっても、原判決に所論のような事実誤認及び法令適用の誤りがあるとは考えられない。論旨はいずれも理由がない。
三、控訴趣意第四(量刑不当の主張)について
所論にかんがみ、原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果を参酌して検討するに、本件事案の要旨は、被告人は、疲労気味の妻花子を休養させようと考え、同女に寝るように命じてともに布団に入り、約三六時間ほとんど食事もさせずに布団の中で過ごしたうえ、更に同女を眠らせるため睡眠薬を飲ませようとしたところ、同女がそのような被告人に恐怖を感じ被告人を突き飛ばして逃げ出そうとしたため、これに激昂し、同女の顔面等を瀬戸物灰皿や包丁で殴打し切りつけるなどして、加療約三週間を要する顔面切創等の傷害を負わせ(原判示第一事実)、その後、同女が自宅浴室で入口を開け放したままシャワーを浴びていた際、外出から帰宅してたまたまその近くで野球用バットを振り回しているうち、同女の言動や寝室のベッドの状況などから、実際にはそのようなことはないのに、同女が被告人の不在中に他の男性と浮気をして被告人を裏切ったものと考えて激昂し、とっさに同女殺害を決意し、シャワーを浴びていた同女の背後からいきなり同女の頭部をバットで数回殴打し、昏倒した同女の首を両手で絞めたうえタオルで強く絞め、更に同女の顔面、頭部等を浴槽の湯に漬けるなどの暴行を加え、同女を絞頸による室息等により死亡させて殺害し(原判示第二事実)、法定の除外事由がないのに嶋崎一郎から三回にわたり覚せい剤含有粉末合計約一・三グラムを譲受けた(原判示第三事実)が、第一及び第二の各犯行当時覚せい剤の反覆使用の影響により精神障害に陥り、心神耗弱の状態にあったというのであり、各犯行特に第一及び第二の犯行の罪質、態様、動機、結果に徴し、心神耗弱の点を十分考慮に入れても、被告人の刑責は重大といわなければならない。所論指摘の、被告人は深く反省悔悟し、一たんは自殺をも考えたほどであること、母を失った子二人はいずれも未成年の女子であること、前科があるとはいえ、本件犯行前約一〇年間は犯罪を犯していないこと、その他被告人に有利と認められる諸般の情状をできる限り斟酌してみても、被告人を懲役六年に処した原判決の量刑はまことにやむを得ないところであって、重きに過ぎて不当であるとは考えられない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条を適用して当審における未決勾留日数中二五〇日を原判決の刑に算入することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 向井哲次郎 裁判官 山木寛 礒邊衛)